/掲載日:2020年10月16日/紙面:山陽新聞朝刊/掲載:13ページ/
佳浩のけがについて、夫婦であらたまって話し合うことはしませんでしたが、「自分のことは自分でさせる」という点は一致していました。
妻は最初から徹底していて、手術後、目を覚まして「トイレ」と言った佳浩に、「今まで自分でできていたでしょう」と1人で行かせたのです。小学校入学前、担任となる先生が学校での生活を心配して訪ねてきた時にも、妻は「特別なことは何もしていりません」ときっぱり。おばあさんも同様でした。昔、戦争で両手をなくした人が、足で栗をポーンと蹴り上げて背中のかごに入れるのを見たことがあるとかで、「人間、しようと思えば何でもできるんじゃ」と、ちょうちょ結びやはさみの使い方などを折々に練習させていました。
私は母として、けがそのものよりも、息子がこの先歩む人生が気がかりでした。仕事、恋愛、結婚…。将来を考えると、不格好でも、自分のことは自分の力でできるようになってほしかったのです。
ただ、事故の時にコンバインを運転していたおじいさんは、自責の念があったのでしょう。孫の中でも佳浩への思いがとりわけ強く、目に入れても痛くないほどかわいがっていました。食事の時など、カニの身をほぐしたり魚の骨を取ったりと、あれこれ手を貸してしまいます。でも、私たちはいつまでも佳浩の隣で世話を焼くことはできません。人をあてにするのが当たり前になってはいけないと、おじいさんとは何度も言い合いになりました。
小学生になるとグローブを買い、父子で毎日のようにキャッチボールをしました。捕球したらすぐにグローブを左脇に挟んで手を抜き、球を投げ返すのです。
4年生の時にスポーツ少年団でソフトボールを始めました。ポジションはセンター。5、6年生では地区予選を勝ち抜き、県大会に進出するほど強かった。ある時、私が対戦チームの偵察に行くと、監督が「相手のセンターは片腕だけど、返球が速いから気をつけろよ」と言っています。うれしくなって、心の中で「よっしゃ!」とガッツポーズ。他のチームの子に腕をからかわれることもあったようですが、仲間が言い返してくれたそうです。
私は佳浩に三つのことを言い聞かせました。「できることは自分でしなさい。どうしてもできなければ友だちに頼みなさい。その時は必ずありがとうを言いなさい」。不便なこと、つらいこともあったでしょうが、素直にまっすぐ育ってくれたと思います。
(聞き手・則武由)